1971年『水俣 患者さんとその世界』のレビュー評価
水俣の水銀中毒事件を題材にした土本典昭監督の自主制作映画シリーズの第2作目は、日本国内のドキュメンタリー映画史上における最高の傑作と評され、世界的にも高い評価を得ています。その理由を見てみましょう。
1932年、チッソ(1930年代から化学工業をリードしてきた肥料会社)が、安価な労働力を頼りに、首都圏から離れた九州の小さな町、水俣に工場を建設し、水銀を含んだ排水を周辺の海に流し始めました。
すぐに住民に未知の病気の兆候が現れ始め、この出来事は、次第に戦後における最悪の環境汚染事件へと発展していきました。土本典昭監督は、チッソを訴えた患者や遺族を訪ね、彼らの話に耳を傾けます。
1950年代から1970年代までの事件の日記が出版されているため、事業者とそれが水俣湾にもたらした汚染、そして長年にわたる事件の隠蔽について、実に驚くべき話を知ることができます。
興味深いことに、弾圧の対象となったのは、会社、役人(工場長は水俣市長を4回務めた)、そしておそらく最も意外なことに、汚染報道によってこの地域の漁業が崩壊するのを望まなかった住民自身でした。
土本監督と撮影スタッフは、水俣に5カ月間滞在し、衝撃的な出来事を克明に記録したドキュメンタリーを撮影しました。
その中で、水俣病で亡くなった人の遺族や、死なずにも病に苦しんでいる被害者の看護をしなければならない人たちのインタビューや映像が紹介されており、中でも、先天性の病気で生まれた子供たちの姿は大変痛ましいものです。
また、1958年の最初の抗議行動のリーダーや、チッソの活動の中止と原告への支払いを説得するために作られた委員会の設立者へのインタビューや、水俣の日常生活や様子も撮りおさめられています。
第一部では、工場に異議を唱え、汚染を証明する研究プロジェクトを支援するために資金を集める努力が描かれており、この側面こそが、再び驚くべき形でこの映画を締めくくるものとなります。
第二部では、病気の被害者が感染症であると勘違いした病院から病と診断されず、さらに街の人々からも偏見を持たれ、最終的には社会から排除されてしまうという、おぞましい場面が描かれています。
土本監督と関沢孝子のカットは、120分の尺(当初のバージョンは167分で、土本監督は映画祭や環境会議で上映するために短縮しました)の中に、できるだけ多くの新しい題材を盛り込みながら、異なる映像を次々と映し出し、適度なテンポを保っています。
このようにして、(ドキュメンタリーとしては)長尺でありながらも、観客を全く飽きさせないテンポを保っています。
『水俣 患者さんとその世界』は、単なる優れたドキュメンタリーにとどまらない素晴らしいスペクタクルなのです。ぜひ一度は見てみてください!