1975年『不知火海』のレビュー

『不知火海』(1975年)は、土本監督が水銀中毒について取り扱ったドキュメンタリー作品の中でも、あらゆる面において最も大きな成果を挙げた作品といわれています。社会と環境の発展における自然パターンと人々の日常の複雑な融合、汚染に直面した際のこれらの構造に対する不安、苦難に立ち向かう人々の強いメンタルへの賞賛、多くの患者が適切な認識を求めることの難しさ、病の深刻さがまだ認識されていない現状など、この悲劇の範囲と広がりについての幅広い考察を行っています。1971年『水俣 患者さんとその世界』の後に作られた映画で提起された問題も含まれています。

土本監督の調査は、かつて取材した水俣だけでなく、長さ約40マイル、幅約10マイルの不知火湾全体までに拡大しました。この不知火湾は、片側を本土に囲まれ、反対側には島々が密集しています。その結果、水俣湾では休漁していたにもかかわらず、この広い海岸では、ほとんど影響を受けずに、漁業が続けられていたことがわかりました。

意外なことに、『不知火海』は、どこまでも続く内海の大自然に継続して焦点を当てた、初めての映画となりました。晴れた日を中心に撮影された本作では、様々な漁法が紹介されていますが、その工夫は舞台と同様に美しいです。漁師たちが釣った魚を料理しているシーンでは、土本監督が親しみやすく、かえって近視眼的な印象が受けます。

漁業によって生活や文化が形成され、子供の頃から常に新鮮な魚を食べてきた人々にとって、漁業を断念するのはそう簡単なことではありません。漁業は、水俣の地元民と他の地域社会とをつなぐ糸なのです。中毒に苦しむ患者は、病についての誤った情報、地元の医師の怠慢、地元の漁業を守るために黙っていなければならないという社会的な圧力などが相まって、これまで多くの人々がそうであったように、未診断のままになっていたのです。

『不知火海』では、中毒の地理的分布と症状がどのように進行するかが描かれています。また、前作に登場した何人かの患者も再び登場します。先天性水俣病の子どもたちは、すっかり成長しています。思春期を迎えた彼らの人生は、いまだに病に悩まされ、より複雑になっていきます。

先天性水俣病の若い女性と原田医師との長い対話が、ワンシーンに収められています。カメラは、海辺の岩の上に座っている二人の後ろに距離を保って置かれています。若い女性は、原田医師に「脳の手術を受ければ治るのではないか」と問いかけ始めます。

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